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最近、「食」や「食育」についていろいろ調べていますが、
何だか私、わけが分からなくなってきております。

そもそも「食」って何?というところから入りますが、
読んで字のごとく、「人を良くする」ものです。これは大変なことです。

また、よく「衣食住」と言いますが、「衣」「住」と比べて「食」の違うところは、
「一日数回、その都度、本人の(あるいは家族の)意思で選んでいる」
ことだと思います。
「毎日違う服を着ているじゃないか?」と突っ込まれそうですが、
大抵は手持ちの服をローテーションするわけですから、選ぶ範囲もしれています。

でも「食」は、その気になったら無限大の選択肢があります。
今晩はトンカツか、うどんにするか、あるいはチップスで済ますかで全然違います。
このように選択の間口がだだっ広い上に、
「基準が定まらない」という特徴があります。

先日、ある食品メーカーの方から次のような話をうかがいました。
「食品の作り手、つまり食材を育て、加工し、商品化する側にとって、
常に『リスクとベネフィット(利益)』がついてまわります。
例えば、企業としては利益を求めなきゃならないけれど、
そのためにはどうしても食品添加物を使わざるを得ない場合がある。
でも今の世は『食品添加物=悪者』というイメージが先行しています。
だからそれをどこまで情報公開するかはとても難しい判断なのです。」

それを聞いていて、受け手(食品を食べる側)も同じことが言えるなと思いました。
私たちはお金さえ払えば
長期保存がきき、簡単に調理できる食品を手に入れることができます。
でもこれは『コンビニエンス(利便性)』と同時に、
食品添加物という『リスク』も一緒に入手しているのと同じなわけです。

つまり、作り手は『リスクとベネフィット』、
受け手は『リスクとコンビニエンス』を両天秤にかけながら、常に揺れています。
そして「どこまでこだわり」、「どこまで許せるか」については、
それぞれがその都度何がしかの判断をして選択をしています。

まとめますと、もともとたくさんの選択肢がある上に、
それを供給する側も求める側も基準が定まりにくいというわけです。
言い換えれば、「食」には圧倒的な「個人差」がある。

私たち夫婦の間でも個人差があります。
カミさんはきっと今よりもより素材にこだわっていきたいのでしょう。
でも私からすると、「お前はヤマメだ。清流にしか住めない。
私は鯉だ。清流も好きだが、少々濁っていても生きていけるぞ。」
なんてことを言ったりもします。

さてこれほど個人差がある「食」の世界で、果たして「育」はできるのか?
そもそも「食育」の「育」って何?「食を教育すること?」「食を育てること?」
さてそこで企業の食育です。

先日はカルビーを紹介しましたが、以下のもどうぞ。
味の素
趣旨:「それって誤解よッ!」味の素は化学調味料ではありません
日本マクドナルド
趣旨:ハンバーガーは栄養素のバランスがとれた食べ物です!
企業努力は認めますが、やっぱり「正当化」「誘導感」はぬぐえません。
これでいいのかなぁ?と考え込んでしまいます。

あと、一言追加。
給食を食べる人(子供たち)は選べないということです。
つまり個人差が無視され、最大公約数的な献立になるわけです。
だからこそ、通常の食事以上に様々な配慮をしてもらいたいのですが・・・。
先日ご紹介したような給食が今でも存在しているとするならば、悲しい限りです。
私は訊ねたい。
「この給食献立を考えたあなた、この献立で食べてみたのか?しかも子供と一緒に?」

これからも「食」と「食育」について、
しばらくは彷徨いながら、いろいろ考えていきます。
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